叔父という技術者

終戦直後の日本は本当に貧しかったのだろうが、みんながみんなそうだったのでそれが当たり前で特に貧しさは感じなかった。
とにかく何にも無いのが普通だから、自分たちで作り出さねばならない。小学校の友達が今日の弁当はこれだといって、弁当箱の中身はでっかいサツマイモが一個入っていたことを今でも思い出す。「子供には腹いっぱい食わしてやれよ」と父が母に話していたことをはっきり覚えている。という事は両親は腹いっぱい食えなかったのだろうと、かなり後になって感じたものだ。父の話では、私の叔父はこんなものとても食えたものではないと言いながら、カタツムリを食べていたそうだ。
戦時中、海軍技術将校であった叔父は戦闘爆撃機の銀河、特攻機の桜花の設計者であった。こうした超有能な技術者を戦後のアメリカが自国の発展に利用しなかった事は、米国人のナンセンスさを如実に物語っていると思う。同じ敗戦国であるドイツの学者や技術者はロシアとの争奪戦を繰り広げたのに。宗教や文化が異なるといっても学問や技術は何の関連性もないのに・・・だ。
父は香川県の松平藩の中老の血を引き、大きな土地を小作に任せ経済的には裕福であり十代まで金の使い方すら知らなかったようだ。父は幼くして当時猛威を振るったスペイン風邪(A型インフルエンザ)により両親を亡くし、叔父の家に引き取られ、叔母によって兄弟同様に育てられた。

私がまだブラジルに暮らしている頃、訪日し再びリオデジャネイロへと帰路の途、浜松駅の新幹線ホームで大勢の人々が三脚にカメラを据え付けシャッターチャンスを伺っていた。なるほどこれが鉄道マニアか、と珍しそうに見ているうちに一体何を撮るのだろうと好奇心が湧き、いかにもマニアっぽい中年男性に聞いてみた。すると ”今日が0系の走行最終日” との事だった。

東大で工学博士を取得した叔父は流体力学の専門家で、時の国鉄総裁に東京-大阪間を3時間で結ぶことができると提言し、その計画実現に尽力した新幹線の生みの親でもあった。自分の作った飛行機で多くの若者の命が消え、戦後自身の能力を生かすには鉄道しかなかったとのこと。鉄道は平和産業であり、戦争には使えないからと生涯、叔父のトラウマになっていたようだ。もっとも、叔父の娘であるフランス文学者の書いた本には、鉄道だってロジスティック(兵站)として戦争には深く関連性があるなどと反発しているが、それは亡くなった叔父への甘えなのだろう。

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